安治川海港路線
「安治川海港路線
大阪市東區平野町二丁目字堺筋國道第廿九號路線より分かれ、右折して京町橋、雑喉塲橋、木津川橋を過ぎ西區天保町安治川海港に至りて終わる。延長二里四十四間、幅員約二間六分にして、其の一部は人家稠密の街區に属し、其の他の一半は安治川南岸に頻せるを以って、海陸荷物の積卸を易からしめ、交通極めて頻繁なりとす。」(明治.36年「大阪府誌 第4篇第2節 道路」から)

元は大阪市内中心部から安治川左岸(南岸)沿いに安治川河口の天保山(桟橋)に至る街道とであったと思われるが、明治36年「みなと通」(市電開通)や安治川拡幅や大阪港の改修整備にともない市内と大阪港を結ぶ経路は変わってきている。安治川の拡幅によりかつての天保山に至る道は弁天埠頭より下は川の底に。



「安治川と大阪港」

○ 淀川は大阪市内では中之島を挟んで堂島川と土佐堀川に分かれる。再び合流した地点から河口までが
 「安治川」で、新淀川が開削されるまでは淀川の本流であった。
  また、河口部分は九条島に遮られ流れが悪く度重なる洪水に悩まされたため、江戸幕府は貞享元(1684)年 河村瑞賢に命じ九条島を掘り割り淀川の水を一直線に大阪湾に導いた。(その後元禄十一(1698)年に「安治 川」と改名)

○ 天保二(1831)年には土砂流入で浅くなり続けた安治川を浚渫。このとき出た土砂で天保山が築かれた。

○ 慶応四年七月(1868年9月)大阪開港にともない安治川河口から6Km上流の川口町に外国人居留地が設  けられた。川口は河川港で水深が浅く大型船が入港できなかったため居留地の外国人は神戸港の 居留地 へ移住。川口は衰退。神戸港はその後東洋一の港に。

○ 明治三十(1897)年「大阪港第1次修築工事」(築港事業)が大阪市により開始され、天保山周辺の埋め立て (築港)など が行われ、明治三十六(1903)年には大阪市街から天保山までの市電と大桟橋(現中央突堤)が 完成するも港の利用は増えず、大正五(1916)年築港事業も中止。

○ 第一次世界大戦景気により大阪港の利用も増え埠頭・倉庫の需要が高まり、住友家など民間業者が市に 代わって岸壁を工事し、岸壁・突堤が整備され、昭和四(1929)年に、「大阪港第1次修築工事」がようやく完成。
○ 昭和四(1929)年から「大阪港第2次修築工事」が開始され北港の完成など大阪港は拡大したが、第2次大 戦で工事は中断。大阪大空襲で壊滅的被害を受ける。

○ 戦後、昭和二十二(1947)年から安治川、尻無川などを拡幅、内港化し、その土砂で地盤沈下の激しい此花、港、大 正区の海抜0メートル以下地区の盛り土を行った。
  その結果、昭和四十(1965)年「弁天埠頭」が完成し、関西汽船、加藤汽船が九州、四国へ就航しにぎわっ  たが、カーフェリーの時代となり、南港のフェリーターミナルに移るとともに平成七(1995)年弁天埠頭からの航 路は廃止された。




安治川海港路線の起点 界筋の平野町交差点

西南角に「生駒ビルジング」
昭和5(1930)年、生駒時計店(明治3年創業)が御堂筋の拡幅に伴いこの地にビルを新築したもの。
石像の鷲が特徴的
平野町3丁目付近

「平野町」の町名は「伏見町」などと同様に秀吉が大阪城築城時に平野から商人などを強制的に移住させた名残


この一つ西の角から「木津川海港路線」が南へ分岐
御堂筋を渡った一筋目に左手ある「御霊神社」

神社由緒によると「古来大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靱、阿波堀、阿波座、薩摩掘及び立売掘、長堀の西部南北堀江の西武等旧攝津国津村郷の産土神」
阪神高速(環状線)の下はかつての西横堀川の京町橋

1600年開削され土佐堀川と道頓堀川を繋いだ堀川。
阪神高速環状線の建設に伴い昭和46(1971)年に埋め立てられた。(東横堀川は埋め立てずに川の上に阪神高速が建設された)
京町橋(跡)を越えると京町堀通に(町名は「京町堀」)

伏見京町から移住してきた町人らにより開削されたので「京町堀」という(一名「伏見堀」というらしい)

元和3(1617)年に開削され西横堀川と百間堀川を繋いでいたが昭和30(1955)年埋め立てられた

(京町堀1丁目「みや古寿司」付近)

靱公園

京町堀の南側は昭和20年の空襲で焼け、戦後進駐軍が飛行場として接収し昭和27年に返還され大阪市が公園として整備
雑喉場橋跡

京町堀通の西の突き当たり、百間掘川を江之子島へ渡る橋

「百間掘橋の東岸鷺島は 江戸時代より雑喉場の魚市と呼ばれ天満の青物市 堂島の米市とならぶ大坂三大市場の一つとして 大阪人の台所をまかなっていた(中略)昭和六年の中央卸売市場の開場によりその歴史を閉じた・・・」(親柱にある「平成二年三月 大阪市」の説明板から






木津川橋から木津川下手(南)を望む

木津川橋
川口と江之子島を結ぶ橋
大阪市の案内板
大坂船手会所跡(川口交差点東南角)

「大坂船手は、大阪湾から」木津川・淀川への船舶の出入りを管理・掌握することと、大阪湾に停泊している船舶を掌握することを職務とする江戸幕府の役職で、元和六年(1620)に設立された。その中心施設がこの地におかれた船手会所である。・・・」(大阪市教育委員会の説明板)
安治川

淀川下流部の度重なる洪水被害を防ぐため幕府は淀川改修に着手することとなり、天保3年(1683)河村瑞賢は、淀川河口の九条島が水流を妨げていることが最大の原因であると考え、その開削と、山地の砂防工事をあわせて上申。  翌貞享元年(1684年)、工事は九条島の開削から始まり、まがりくねった河川を直線河道とする新川がつくられした。
(このため元々一つの九条島であった九条は安治川を挟んで西九条と九条に分かれている)
新川は、元禄11年(1698年)幕府によって安治川と命名され、かつての流路は「古川」と呼ばれた。



昭和27年に埋め立てられた古川が安治川に合流するかつての国津橋の南詰めに「古川跡」、「河村瑞賢紀功碑」がある
   
 古川跡
「大阪府の防潮堤工事にともない昭和二十七年十一月この地点がら東、安治川に至る長さ七百五十メートル、幅十五メートルの古川を埋め立てた・・・大阪府知事赤間文三
贈正五位河村瑞賢紀功碑(安治川第一振興町会の説明板)

碑文は当時の大阪朝日新聞の西村時彦編集長による 
 
 

 
JR大坂環状線安治川橋梁



       橋脚下にある地蔵


 
安治川水門(港区弁天6丁目)

台風などによる高潮被害を防ぐための防潮堤
アーチ型としては日本で最初

アーチ型の主水門を閉めるのには30分必要
   

広い境内の三社神社(港区磯路)

元禄十一(1698)年、市岡與左兵衛宗勝が新田開発の工事の安全と開発の成功と開発された地域の守護神として、天照皇大神・豊受大神・住吉大神の三柱を祭神として勧請して、社殿を建立
   

三先天満宮(港区三先)

神社HP
   
大阪市中央体育館(港区田中)

体育館とプールと公園
1997年なみはや国体を機にこの地に移転





天保山運河を越え築港へ
築港が国際港として整備されると、大正12 年(1923)に住友倉庫によって物流拠点として竣工され、昭和3年(1928)には鉄道が開通し、貨物列車の発着駅となり、国内外の港を結ぶ貨客船の貨物積み降ろしが行われた。しかし戦後、昭和40年(1965)以降になると、貨物運搬はコンテナ(貨物を納めた移動式倉庫)が主流となり、赤レンガ倉庫は必要とされなくなり、平成11年(1999)に倉庫としての役割を終え、現在は大阪市が管理。
 

住吉神社(港区築港)

「當社は天保十三年三月十八日大阪城代幕命を奉じ、摂津一の宮なる住吉神社より四座の御分霊を目印山(旧天保山)に勧請し、以来、本社と本末の関係を以て祭祀を継続し、大阪三郷の関係住民及び海運業者の日夕の崇拝するところの守護神なり
ついで元治元年天保山に台場の築かるに及び天保町に奉遷し、明治三十九年九月十九日官幣大社住吉大社の境外末社となり、翌四十年十二月西区靭中通二丁目永代濱住吉神社を合祀し大正六年天保町より築港遊園地なる現在地に奉遷し、以て築港一円の氏神として奉斎することになれり」(神社御由緒書より)


釈迦院(港区築港)

正式には「高野山真言宗 準別格本山 築港高野山 釈迦院」という
明治四十三(1910)年、弘川寺(南河内郡河南町弘川)塔中「釈迦院」の寺号を築港に移したのが寺院の縁起。
当時は五千坪の大伽藍で、「東の四天王寺、西の築港高野山」と呼ばれるほど参詣者が集い、毎月二十一日の縁日には賽銭米は三石程、屋台も百三十店余り出て大いに賑わった。
昭和二十年、大阪大空襲にて焼失。昭和二十七(1952)年に天保山運河高野堀拡張のため、以前の十五分の一の規模に縮小されて現在地に移転。
  釈迦院境内にある女神像?のようなもの
船首の守り女神のようでもあるが・・・・真言宗寺院には不似合いの像
 


 

天保山

天保時代の安治川の浚渫の土砂が積み上げられ、当時は20メートルほどの高さがあったようで行楽地でもあったが、
幕末に砲台を築くために削り取られ明治時代には7メートルになった。その後の地盤沈下で現在は4.53メートル
 

(天保山公園入口にある錦絵「浪花天保山風景」の陶板画)

天保山の山頂にある二等三角点

国土地理院によると「標高4.53メートル」とある

また、天保山山岳会により「日本一低い山 天保山頂」と登山証明書が10円であることが示されている。







天保山の渡し

公営(大阪市建設局)で安治川で唯一残っている渡船




ホテルシーガル前のマーメイド像

「マーメイド像は、ハンス・クリスチャン・アンデルセン作「人魚姫」に登場する海の王の娘をモデルとして生まれました。陸にいる王子様と海にいるお姉さんの人魚姫からいちぢに声をかけられて、どちらへ行くか迷っている姿をあらわしています。
このマーメイド像は、デンマークのコペンハーゲン港と大阪港との文化交流の一環として、1995年6月にカールすバーグ社から大阪市に寄贈されたもの・・・」(マーメイド広場にある説明板から)
大阪港湾合同庁舎から見た中央突堤

かつての大桟橋




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