尼崎街道
大阪と尼崎を結ぶ最も海側の街道。
左門殿川、神崎川、西島川、淀川、正連寺川、六軒屋川、安治川と多くの川を渡る

 明治36年「大阪府誌」から引用
 「本街道は大阪市西區川口町における安治川海口路線より岐かれ、北區安治川北通、西野田上ノ町、四貫島町及び西成郡傳法村、川北村等の諸町村を過ぎ同郡千船村大字佃なる梅田街道に合して終る。此の延長一里廿貮町四十一間、幅員約壹間半を有して全線新開の田野を貫通し、其の途中中津川、神崎川の派流數多の小川を横斷するを以って道路概堤上にして、朝日、備前、百福、中島、、森巣、西島、城島等の諸橋あり線路は都べて平夷なれども堤塘の迂回せる所、道路、亦、屈曲し、其の前後は多少の阪路たるを免れず。

 この度は、梅田街道の帰り道として歩いたので尼崎から大阪までのコースとなった。

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尼崎から西淀川区へ

大物で中国街道から分かれ大阪へ

このあと一転にわか雨で1時間ほど雨宿り
左門殿川を辰巳橋を渡ると佃島。東詰で梅田街道から右へ分かれ、左門殿川に沿って進む。

雨上がりの佃島

中島橋を渡る
中島の五社神社

御祭神
天照大御神、豊受大神、素盞鳴尊、火之迦具土神、住吉三神

御由緒
「元禄元年中島新田開発の時、五社五柱の大神達を勧請、明治四十二年六月村社に列格、文化文政の頃、津田常則(平常則又は城常則とも云う)と呼ぶ神官あり。此の人「此の世に住める人の病むくさは悉に救い治むべし」との神勅を蒙り疫病消除に霊顕あらたかにして、誰ゆうとなく当社のことを城島のくさ神様と呼ばれ近郷から祈願に参拝する者の跡が絶えなかった。」
中島から西島へ
西島住吉神社

元禄十一年(1698)新田開発、佃、大和田の対岸よりにしにあることから西島と名付けられた。その開発の折住吉四柱大神を勧請
西島から両島橋を渡り百島へ
西島閘門
中島大水路から続く大野川が新淀川の開削でここが出口となった
大野川緑陰道路
淀川の堤へ
かつてはここ福村から申村、伝法村まで街道がつながっていたが、明治30年代新淀川の開削により分断され、福村の渡しで対岸の伝法へ渡ることとなった。現在は渡しもなくなり上手の伝法大橋を渡ることになる。
伝法大橋と新伝法大橋は国道43号線


此花区

伝法

旧中津川から分かれた伝法川が新淀川に合流(伝法水門)


このあたり現在は伝法五丁目であるが、かつては北伝法村で新淀川ができる前は申村であったところ


 
西念寺
大化元年(645年)天竺南山道宥律師の教伝により、法道仙人が仏法伝導道場を建立されたのがはじまりという。中世には摂津伝法の船寺として信仰を集め、広大な寺領を持ち、摂・河・泉・三国の四大本山の一つとして栄えたという。明治6年には小学校(現伝法小学校)が当寺に設置されていた。(此花区HPから)
西念寺の門前に大坂道の道標
「右てんま 左あまがさき 、尼崎本街道」
この門前には伝法川に架かる備前橋があった
   




庚申堂

明暦五年(1658)建立された愛宕神社の中にあったが、愛宕神社は明治四十二年(1909)澪標住吉神社に合祀され、地元の強い要望で庚申堂だけが残った。申の彫刻があることから申神社とも呼ばれている。








 

澪標住吉神社

 神社境内に澪標(みおつくし)
 
 
   建保3年(1215)村と港の繁栄を祈念し伝法村の中心に傳母頭(もりす)神社として鎮座されたが、文禄元年(1592)秀吉が出兵の際に三本足の鴉が先導、海路平安であったところから鴉之宮と改められたと伝えられる
正連寺川に架かる森巣橋
文久三年(1863)備前藩によって架けられ、側にある鴉宮の元の名である傳母頭神社の傳母頭(もりす)の名を保存するために名付けられたと言われている。
   
 
四貫島


 
森巣橋を渡り四貫島商店街へ


千鳥橋

白砂大神と大阪市電延伸での道路拡張にも残されたいちょう
此花区梅香1


六軒屋川を朝日橋で渡り終えるとすぐ左へ

西九条

西九条神社

地蔵
   安治川へ
安治川対岸が安治川海口路線で尼崎街道の終(起)点




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