大阪府誌(明治36年)から
二等補助里道
起點地名 三島郡三島村大字田中茨木街道支線
經過地名 三島郡三島村、安威村、福井村
終點地名 三島郡福井村假定県道亀岡街道
里稱    二四町
           
           


福井街道


福井街道

 田中(現在の茨木市三咲町)で茨木街道支線に分かれ五日市、上野、耳原を経て福井で亀岡街道に合流する街道
 途中、道祖本街道西国街道と交差する。 短路 2.6Km










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起点 

田中(現三咲町)の茨木街道支線との辻が起点で寛政9年(1797)の道標がある

この辻はかつて茨木川と安威川に挟まれた場所で茨木街道支線は茨木中心部から川を渡ることなくこの辻に至ったが、
昭和16年に茨木川が安威川に合流するよう付け替えされたため今では茨木川を渡るようになっている。

ここから茨木川沿いに西へ向かう
なお、ここからしばらくは東の西河原からきた道祖本街道と重なっている。



「右丹波 すぐかちを寺 左大坂」
「石にとひ 右の道には 亀やまといふ」
「右大坂 すぐそうちし 左丹波」
「寛政丁巳秋九月」(1797年)

(彫が浅く読みにくい。「わがまち茨木道標編」による)



すぐに国道171号線にあたる
その角に幅の広い文政4年(1822)の道標
   
「右 いはらき 左 そうち寺 道」
「文政四巳年十二月二十七日」
「香具連中建之」
「釋休西 畑田村俗名重兵衛」


手前の分岐(茨木川の付け替えで道標の示す「いばらき」の道は現在消えている)にあったものと思われる。
 
 
 
しばらく茨木川の左岸堤上を進む進む
五日市の手前で勝尾寺へ向かう道祖本街道と別れ堤を右へ下りていく

「右 みようけん山 
左 かちをう寺 」
 
   
 
   五日市
 
水天宮と貯水池

水天宮が祀られているのは湧水池であったからか

「五日市」など「〜日市」という地名は全国に数多くあり、その日に市が開かれたことから地名になったものと思われる。この近くの西国街道と茨木街道支線の辻には「十日市」がある。
   
   


耳原(みのはら)
 
名神高速の高架下を越えまだ田畑の残る住宅地をしばらく進むと耳原
耳原は西国街道沿っている
       
西国街道との辻

左手に見える丘は幣久良(てくら)山

鼻摺古墳(耳原方形墳)
この辺りでは珍しい方形墳


茨木市教育委員会説明板

耳原公園

幣久良山と耳原大池周辺は「耳原公園」として茨木市が整備
 幣久良山は元亀2年(1571)、麓を流れる茨木川(勝尾寺川と佐保川の合流地点)における「白井河原の合戦」において和田惟政勢5百旗が陣を張った「糠塚」と云われている(幣久良山とは別に池の北端付近が糠塚」とも)

頂上付近には幣久良山御野立所石碑(明治20年(1887年)2月16日明治天皇の大演習御親覧の碑)と大正天皇駐蹕所(ちゅうひつのところ)碑(大正3年(1914)11月陸軍特別大演習御親覧の碑)がある。
この大正3年の大演習時には、11月15日8時過ぎに耳原の地で北軍と南軍が対峙し、陛下は10時過ぎに幣久良山到着し13時20分に高槻駅に向かわれた。当時茨木中学校3年であった川端康成もこの日近くの郡山からこの演習を見ていた、とある
大阪春秋145号から)

 
   


福井 へ
 
  耳原公園から北へ
    
東の安威からきた道との辻に「右鎌足公古墳道」とある
将軍塚
藤原鎌足の墓所といわれている

茨木市教育委員会の説明板
将軍山古墳

茨木市教育委員会の説明板
上の将軍塚のすぐ左手に石室が移設されている

この石室があった前方後円墳の後円部は将軍塚の前(南)に広がる住宅地

山西集会所のところで佐保川に出合う

佐保川に沿って北へ進む

将軍山古墳の前方部

   福井街道終点  
正面の遍照寺前で亀岡街道に突き当たる


 
真宗大谷派 遍照寺
 
亀岡街道へ

 
     
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