茨木街道支線




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茨木街道高槻街道が並行しながら茨木市本町で東へ右折する。そのT字路を起点として北へ向かう。途中、三咲町で道祖本街道と交差、十日市で西国街道と交差、安威で妙見街道に合流して終点となる


大阪府誌(明治36年)から

 種類    一等補助里道
 名称    茨木街道支線
 起點地名 三島郡茨木町大字茨木假定縣道高槻街道
 経過地名 三島郡茨木町、三島村、安威村
 終點地名 三島郡安威村大字安威妙見街道
 里稱    二里六町
 



茨木街道支線の起点
茨木市本町が起点

この北東角に半分壁に塗り込められた道標がある

南面 「右 京 八幡 三島江 唐崎 富田 高槻」(茨木街道高槻街道
西面 「左 妙見山亀山中山勝尾寺」(茨木街道支線)
上泉町
茨木市内唯一の造り酒屋である中尾酒造は平成22年、同市内の宿久庄へ移転
昔はこの北摂三島地方で盛んに作られていた酒米である「三島雄町」を復活させて「凡愚」、「見山」などの日本酒を醸造
JR東海道線をくぐる「丸また」
明治9年東海道線開通時に完成したもので「田中の丸また」と呼ばれ、基礎の石垣は明治初年に取り壊された高槻城の石垣が使われている
田中の天満宮
街道から西へ参道が延び(元)茨木川の堤を背にしている
その昔、菅原道真が京の都から大宰府に送られる途中、ここ田中村で日が暮れ泊まることとなったが、一番鶏を早く鳴かして1日でも早く九州に送れと藤原時平の命を受けた警護の者が、村人に一番鶏を早く鳴かすよう触れた。村人がいろいろ苦労しても早く鳴かすことができないなか、「おまつ」というばあさまが飼っていた鶏たちのなかに炬燵を入れてやったことで、鶏の勘が狂い夜八ツ丑の時(午前2時)に鳴いた。しばらくして一行は出立。大坂街道から尼崎の大物で船に乗り換えて九州へと。
その後、宿泊跡に神社が建てられたのがこの天満宮で、全国数ある天満宮のなかでは、菅公の足跡が残された由緒ある神社。
田中のはずれで道は安威川の堤へ

昭和16年に茨木川の流路変更で安威川に合流されるまでは茨木川と安威川の間をこの街道は通っていた

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安威川茨木川合流の碑

「茨木川は、本市北部の山地部から中央部を、安威川と並行して貫流し、三宅村で合流していました。 昔は、川幅が甚だしく狭いうえ天井川で、しかも、堤防の土質が軟弱なため、一度洪水にあうと破堤崩壊して、たびたび濁流氾濫の災害をおこしてきました。 昭和に入って同10年の水害の折、沿川の、茨木町長西田善次氏、玉櫛村長高島信蔵氏、玉島村長岡田杢之助氏、三島村長谷山台三氏、春日村長川村英太郎氏、三宅村長田畑新吾氏が、連署して政府および、大阪知事安井英二氏にその実情を訴え、速やかに河川改修事業を実施するよう陳情書を提出されました。 当時の府議会議長磯村弥右衛門氏等関係者の協力を得て、町村民の結集した努力の結果、昭和16年茨木川は田中町地先で、安威川に合流され、現在の姿になりました。合流点以南の区間は、昭和24年廃川となり、現在は、元茨木川緑地として整備されております。 昔からたびたび洪水に悩み、懸命に対応してきた先人の賢明さと粘り強さを知り、洪水にたいする先人たちの苦労に感謝し、その功績を顕彰し、また、後世に引き継いでいくため、ここに合流由来碑を建立します。            昭和60年3月吉日  茨木市長 重冨敏之之書」
かつての街道は新たに川となった部分にさえぎられた
新道に架けられた田中大橋を渡る
田中大橋を渡りすぐ左へ、
旧街道へ下ったところに
お地蔵様が並んでおられる
道祖本街道との辻(三咲町)

辻の東南角に彫の浅い道標が立つ

「わがまち茨木 道標編」によれば
正(西)面 「すぐ そうちし、右 大坂、左 丹波」
右側(南)面 「寛政丁巳秋九月 □梅」
裏(東)面 「すぐ かちをてら、右 丹波、左 大坂」
左側(北)面 「石にとひ 右の道には 亀やまというふ」(「亀」は頂上に書いてある)


道祖本街道は西国第二二番札所の総持寺と第二三番札所の勝尾寺とを結ぶ巡礼道




街道は辻の道標からすぐに新道に合流
国道171号線を越えるとすぐに右手に旧街道がある
十日市の辻
名神高速の下を越えると間もなく西国街道との辻がある

西国街道との辻の東南角に立つ道標
西面 「右 茨木停車場 大阪、左 石川 見山 茨木(道)」
南面 「右 芥川 高槻 山崎 京都、左 福井 豊川 箕面 池田 神戸 國(道)」
北面 「此處 安威村大字十日市」
東面 「明治四十二年三月建□大(阪府)」

善永寺
十日市

この付近には「五日市」というところもあり毎月5日や10日に市が立ったのでしょう

十日市のはずれ近くに妙見宮の常夜燈(明治15年)
道を挟んだ向かいに道標がある

 「左 さうちしみちすく」(総持寺道直ぐ)
 ※「わがまち茨木道標編」によれば元は旧太田橋(西国街道)の西詰にあったものが名神高速道路工事の時に捨てられていたのを地元の方が保管されている

しばらく進むとT字路の角に細い石に「右 大坂」とだけ書かれた道標

安威
新道に合流し歩道をしばらく進む

回りはまだまだ田畑が残っている

府道から安威の集落へ
段丘を登り切ると街道は右へ

三叉路角に「右 鎌足公古廟」の道標(ここからは左の道)
安威城跡
「この城は土豪安威氏によって築かれた城(居館跡)で、北の花園山頂にある砦と一対のものと考えられています。
 安威氏の記録は、「六波羅蜜寺文書」貞治二年(一三六三年)の中に記されていることから、鎌倉時代の終わり頃には在地領主として居たと考えられ、城もこの頃に気づかれたのではないかと考えられます。
 城の規模は、「大阪府全志」によると、東西百間・南北百五十間とされ、また「東摂城址図誌」には、小字城垣内とされる南北五十五間半・東西二十二間余の地域に御殿台と呼ばれる土壇の存在を伝えています。
 現在、安威小学校の東側道路と村の中央を南北に走る道路との間が内郭で、中央道路に沿って流れる溝は堀であったと伝えられています。
 外郭は、今もその多くが竹林となって旧地形を残しています。
 さらに東南の一角には、城の井戸と伝えられるものが残っています。この井戸は、もとは石積みの井戸であったといわれています。茨木市教育委員会」


安威の町並
村の中央の道を北へ向かうと正面に大念寺、左手に阿為神社がある
阿為神社
「大阪府誌」(明治36年)から
「安威村大字安威に在りて天兒屋根命を祀り、式内の舊社にして一に苗森明神と稱せり。社傳によれば藤原鎌足の勧請に係り、今旅所の在る所は昔日の神域にして字を宮の後と稱するも實に是れより起れりといふ。又、苗森の稱も田畴間の森林なるより出で、後鹿島大明神の社頭に奉遷せしもの即今の神域なりとぞ。( 抑、安威の地名は古く雄略天皇紀に見え和名抄にも収めて阿井と訓し、今、太田なる継體天皇の御陵も古は藍にして、郡中極めて古き名邑の一たり。 然して當社を勧請せしは鎌足と傳ふれども、姓氏録摂津國神別の部に「中臣藍連、天兒屋根命十二世孫、大江臣之後也」とあるを以つて見れば此の族の勧請ならんは疑なし)
 社域は安威村の正北に位して花園山の半腹に靠り、数十級の石磴の上に在りて兆域一町二反に余り、 本社は出雲大年の両末社と共に鞘屋の裡に座して稚松雑木之れを蔽ひ、素盞雄命社、底筒男命社、猿田彦神社、金山彦神社、市杵島姫神社、火明神社、天満宮社、鹿島神社等の七末社は境内に羅列して本社を護れるものヽ如く、後山の松林は香箪に富み頂上の眺望また極めて佳なり、氏子百八十六戸あり。」



阿為神社参道脇にある地下倉庫跡(イ地区)

桑原地区にある「大阪府・茨木市」の説明板から
「大阪警備府軍需部安威倉庫跡地
わが国は、先の戦争において多くの人命を失い、同時にアジア・太平洋地域の人々に大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れてはなりません。
 本地域に現存する地下倉庫は、旧日本海軍吹田山田倉庫の衣料、食糧庫が手狭になったため、1944年(昭和19年)初頭から建設計画がたてられ、同年から掘削作業にかかったと思われます。
 地下倉庫は、3か所(イロハ地区―総延長約1Km)建設され、イ地区は完成して物資が保管されましたが、他の2か所は完成をみることなく敗戦を迎えました。
 建設にあたっては、強制連行された朝鮮人が過酷な労働に従事させられていました。戦後50周年にあたり、悲惨な戦争を二度と繰り返さないよう、平和への誓いをあらたにするため、ここに銘板を設置します。 1995年(平成7年)12月 大阪府・茨木市」
大念寺

斉明天皇二年(656年)藤原鎌足の長男定慧が開祖
天正年間(1573〜1592年)浄土宗に改宗

向かって左の山が安威砦跡、右は阿武山、その間を安威川が流れ出る。 中央奥は龍王山(510m)
安威砦跡


茨木市教育委員会
による説明板

安威神社、大念寺に連なる花園山丘陵の東端、標高89mの通称天神山とも呼ばれる山上付近に三カ所の郭が並んでいる。

安威川に架かる「長ヶ橋」(旧府道46号)
上流側に新長ヶ橋が架けられたため旧橋付近の旧府道は廃道に

終点 : 長ヶ橋を渡ったところで右からきた妙見街道に合流
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