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佐保栗栖(クルス)山

 福井から山手に入り高木山のバス停を過ぎさらに佐保川に沿って進んでいくとまもなく左から迫る山に沿って大きく左カーブしていく。
地名としては佐保であるが、まだ馬場のバス停よりも手前、そのカーブの終わり付近から右手(東方向)に高くはないが急斜面を持った山が近づいてくる。佐保栗栖山。
 隠れキリシタンで有名となった少し北にある千提寺(せんだいじ)にもキリシタン墓石が発見された「クルス山」があるが、佐保クルス山はキリシタンに関する遺物等が発見されたという記録は見当たらない。

 佐保栗栖山砦跡は、国際文化公園都市(彩都)の開発に向け平成10年に大阪文化財センターによる調査が行われ平成11年に現地説明会が行われた。(大阪府文化財センターHP現地調査資料)

 調査の結果、16世紀半ば戦国時代の砦跡とみられているが、これだけ大規模の砦跡であるにもかかわらず、誰が何のために築いたものか全く記録にないのは不思議としかいいようがなく、却ってキリシタン(弾圧)の歴史との関係を想像させる。

 また、クルス山の東南台地上には中世墳墓跡の存在が知られており、昭和42〜43年に茨木市が一部発掘調査を行なったが、平成10年(1998)に栗栖山(クルス)山南中世墓群の本格的な調査が行われた。(大阪府文化財センターHP現地調査資料) これも歴史的な経過が現在に伝わっていない。


茨木市教育委員会の説明板
             佐保栗栖山砦(さほくるすやまとりで)
 佐保盆地の南を画する山脈が、茨木川(旧佐保川)によって切断された東側の突端、標高一八四mの栗栖山頂に築かれた連郭式の砦で、東西二〇〇m南北一〇〇mの範囲に、城の遺構が今も残っています。
 尾根続きの東を除く三方は急斜面で囲まれた要害の地であります。
 城への通路は、佐保から福井に通ずる旧道より分かれて佐保川の枝流大谷川を渡って山上へ尾根沿いの道と、国見街道より尾根伝いの道が東から通じ、途中郭の手前約六〇mのところに、長さ二五mにわたって幅約 0.五mの通路造られ通行を制限しています。これを過ぎて少し進んだところで、佐保の谷からの道と合流して郭の入口になります。
 入口正面に高さ四m、上面の径一四m位の背後に土塁をもつ矢倉台状の少郭が入口の守りとなっています。
この郭から南東へと尾根に沿って六郭があり、それに伴って竪堀・土塁や石垣の残っているところもあります。
 また、城の北側に井戸ケ谷と称する谷があり、以前八角形の石積み井戸が残っていたと伝えられていますが、今は埋没していてみることはできません。構造からすれば戦国時代頃に築かれたと考えられていますが、築造者についてはわかっていません。
国見街道と佐保より福井通ずる道路の双方を押える位置からみて摂津と丹波を結ぶ連築城とみられ福井城との関係が考えられる遺跡です。
                   茨木市教育委員会

← 佐保栗栖山


佐保川を渡る →

栗栖山南側
 山への入口がどこかわからないので尾根の西端の麓から入り直登
まともな道はないが踏み跡はたまに見られる

西から東へ

道は無い
西の尾根の頂上あたりに石積みがある
←溝



大阪市内中心部方向→
結構眺めはよい
遺構調査時には丸裸であった山も10年以上たてば形状がつかみ難い

所々に穴があり雑草に隠れており危険

北側も南側も崖のような急斜面。砦には最適
まともな道には行き当たらずひたすら東をめざすとやがて竹藪になる
一部道らしきものに行き当たり、ようやく清阪街道の舗装路が見えても最後の最後、藪にさえぎられ脱出口が見つからない。


たまたま看板の横に出てきた。「砂防指定地内行為同意標識」でした。
無理やり藪を泳ぎ出てみると「団地入口」バス停のところへ


東側から見た佐保栗栖山

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