葛城街道2(葛城山上〜名手)   

 
葛城街道 
岸和田から名手(紀の川市)



葛城街道は、泉南から(和泉)葛城山へ向かう牛瀧街道(岸和田から牛瀧を経由)、 葛城街道(岸和田から塔原を経由)、 水間街道(貝塚から水間、蕎原を経由)のうちの一つで現在の府道39号岸和田港塔原線にあたる。

岸和田市本町で紀州街道から分岐し東南へ向かい土生で小栗街道と、また河合町で牛瀧街道支線と交差、塔原で蕎原から来た水間街道に合流。葛城山を越え名手(紀の川市)で大和街道に合流する。


明治36年 「大阪府誌」から

種   類 一等補助里道
名   稱  葛城街道
起點地名 泉南郡東葛城村大字塔原管轄界
経過地名 泉南郡東葛城村、南(有?)眞香村、土生郷村、岸和田村、岸和田町
終点地名 (泉)南郡岸和田町大字岸和田本國道第廿九號路線
里   稱  四里一六町

大阪府誌では塔原管轄界(葛城山頂)を起点とし岸和田を終点 (17.5Km)としていますが、今回は逆に岸和田から名手へ向かうコース(27.2km)を歩いています。



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葛城街道1(岸和田市本町〜葛城山頂)


紀州街道の岸和田本町が起点(終点)
「紀州街道」と「こなから坂」の新しい道標の横に岸和田市道路原標(大正9年)が立つ
こなから坂へ進むと市役所、岸和田城
「こなから」とは「小半」で1/4のこと。坂の勾配が1/4であったことからこの名がついたらしい。
岸和田城
「建武年間(1334)楠正成の一族和田氏が当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりとなったといわれている」(岸和田市HPから)
岸城神社
御祭神は天照皇大神、素戔嗚尊、品陀別命
9月の岸和田だんじり祭りの宮入で有名
 

南海本線の高架の手前、暗渠となっている古城川手前に地蔵堂がある
 上町付近
 
JR阪和線の東岸和田駅南側の踏切を越えた右手に地蔵堂がある    地蔵型道標で「右かつらぎ、左土生村 道」とある。

元は土生村中を通る道と土生神社の南側を通る葛城へのバイパス道との分岐に立っていたものといわれている



土生の道標

「土生神社郷土の歴史を学び伝承する会/土生町会」設置の説明板
   小栗街道との辻

上の道標は、元はこの辻(左手前)にあったものらしい
土生の札の辻の地蔵型道標

正面「すぐ泉光寺 西ハ岸和田 道」
左面「東 槇尾寺牛滝」
右面「南 流木水間寺大木」

葛城へは「東」へ
   
  土生神社


寛治4年(1090)北野天満宮から分霊を勧請し祀った


神社由緒
   
  土生を過ぎ孟正寺池、中島池に沿って府道を進むと神須屋で葛城街道支線が右から合流

左手の樹木のところに泉州玉ねぎの元祖「坂口平三郎の頌徳碑」が建てられている

(孝子越街道の吉見(田尻町)春日神社に「泉州玉葱栽培の祖」の顕彰碑があるが、坂口平三郎が栽培技術を伝え、田尻の今井佐治平・大門久三郎・道清音平らが栽培を確立した)

   
八田町の入口、矢代寸神社のところで旧道は右へ分かれている 
その分岐に道標があり、「右 忠臣 捕鳥部万墓、義犬」とある(墓はここから西南、大山大塚古墳、義犬塚古墳)

 捕鳥部萬は物部守屋に仕えていたが、用明天皇2(587)年、守屋が蘇我氏に滅ぼされると妻の家があった有真香邑に逃れ、朝廷の大軍相手に奮戦した後に自害。
 朝廷はその遺骸を八つ裂きにしようとしたが、萬の飼犬が人を近づけず、萬の頭を噛みちぎって古墳に埋葬し、その横に臥して飢え死。朝廷は義犬として称え、萬一族に萬と犬の塚を作らせた。隣接して義犬塚がある。
(日本書紀の崇峻天皇即位前用明天皇二年七月)
 
矢代寸(やしろき)神社 (岸和田市八田町)

祭神 武内宿彌・波多八代宿彌・建御名方命・素盞嗚命・市杵島姫比売命・武甕槌命・菅原道真公
継体天皇元年創建、波多氏が祖神を祀ったのが始まり
   
 
 
八田町

右へ行くと捕鳥部万の墓
   

土生滝町で阿間河滝町への分岐に小祠があり、その手前に地蔵型の道標がある。  「右ハみつま、左ハかつらき」

四体の地蔵尊が祀られているが道標型かは外からは不明
土生滝町付近
国道170号線(外環状線)の交差点を越えしばらく進むと右手に意賀美(おがみ)神社がある
意賀美(おがみ)神社

延喜式内社で闇意賀美(くらおがみ)神を祀る。
創建年代は不明ながら境内の手洗盤には「天平四壬申年八月吉日」とあり古い神社(天平4年は732年)
闇意賀美神は水を司る神(京都の貴船神社の祭神でもある)

雨降りの滝
神社の前を流れる津田川にある滝で日照りにはこの水を浚えて神前に祈ると必ず雨が降ったとのこと
   

河合町 
河合から見た神於山

神於山の麓、津田川に沿って登っていくと河合町に出る
新道(府道39号)船渡橋をわたり直進していくが旧道は津田川沿いに左へ 
船渡橋の北詰に小祠があり中に二体の地蔵が祀られている
津田川の右岸沿いに河合の集落がある
しばらく行くと左から牛瀧街道支線が合流し数メートルの間並行する。その角に地蔵型の道標がある。「右ハ 牛たき、左ハ まきのを」
 

 
しばらく並行した牛瀧街道支線がまた右へ分かれていく。その角に地蔵型の道標と大正7年の道標(石柱型)がある。

地蔵型「右 水間寺、左 かつらき」
石柱型
正面「弘法大師光明眞言壱一萬遍唱病気全快、 高野山女人堂へ九里三五丁 實地調査、 慈尊院御母公寶前へ六里十七丁半 森本亀吉」
右面「水間寺ヘ二十八丁木積古佛観音堂へ二十一丁、河合毘沙門天へ二丁半、犬鳴不動明王へ三里十丁 不動辻より粉河寺へ二里廿五丁」
左面「(上部に光明真言)高野山へ参詣道案内。葛城山へ二里七丁十六間、 峯より十六丁下り出合辻左へ是より三十丁、 大松別辻左へ下り廣口村川ヲ渡 大谷村ニ入ル、 牛瀧山ヘ一里廿八丁」
裏面「大正七年旧九月建之」
  さらに川に沿って登っていくと阪和自動車道の手前で府道39号に合流
塔原まで府道が続く

 
 



   
採石場を過ぎ大きな右カーブの頂点に祠がある

大きな台石のうえに役行者と青面金剛の石造



 
相川口の手前で左に牛瀧街道の大澤へ抜ける道があり、その角に地蔵型の道標と大正10年の石柱型の道標(河合の道標と同じ施主と思われる)がある


大正10年の道標
正面「(上部に不動明王像)海陸軍海上安全不動明王、右高野山波切不動明王へ九里、左牛滝山威徳明王へ壱里」
右面「
本村相川札場辻へ六丁 塔原牛神橋ヘ・・・、蕎原極楽橋へ三十四町 木木・・橋へ二里・・、葛城山へ一里十八町半、慈尊院弘法大師御母公堂前へ五里二十・・」
左面「實地調査、大澤的場橋へ十七町半内畑牛瀧橋二十一町、・・・・・・父鬼定之橋ヘ一里五町槇尾寺ヘ二里三十三町」
裏面「大正十年十一月建之 施主河合・・ 森本亀・」
(下の方は草が茂って読めませんでした)
 
   小型道標「右まきのを、左きしわだ」  地蔵型「右かつらき道、左うしたきみち」
 相川
 

塔原


川沿いの旧道に入ると地蔵がある

旧道は途中でフェンスで通行できない
 
 
塔原口バス停の手前左に屋根つきの小祠があり、外には折れた丁石と五輪塔や地蔵型道標がある
 

「十六丁」おそらく葛城山の折れた丁石

 地蔵型道標「右大木 左葛城」


塔原の集落の中を進む

「至 葛城山登山口、左この先行き止まり」の看板のところから山道に入る


葛城登山道

しばらく上った所に分岐があり
「右かうや こかわ、右やまみち」



急な山道を登っていくと蕎原からきた水間街道の終点の分岐にあたる
地蔵型の道標があり「右塔原岸和田 左そはら水間」

蕎原方面


枇杷平

きびしい急坂を上り切り尾根道に出てしばらく行くと両側に石灯籠が建つ少し広い場所に出る
「山頂まで二千二百米」とある

一度舗装道に合流するが再度山間道に入りブナ林の中を行く
 
国指定天然記念物 和泉葛城山ブナ林(貝塚ライオンズクラブの説明板から)

 「和泉葛城山は標高858m、大阪・和歌山の府県境に位置し、古くから修験道や雨乞い
などの信仰とかかわりの深い山です。
 山頂付近に見られるブナ林は森林としての価値が高く、大正12年3月7日に国の天然記念物に指定されました。ブナはブナ科に属し、ドングリをつけるナラ・カシなどに近い落葉広葉樹です。月平均気温が6℃〜13℃の涼しい地域で育成し、日本では主に中部から東北地方と日本海側に分布しています。西日本の太平洋側での分布は少なく、標高1,000m以下ではほとんど見られません。和泉葛城山では650m付近から見られることから、気候条件としては南限に近い位置にあるといえます。
 大阪の自然を代表するこのブナ林は、現在は約8haの広さしかなく、このまま放置しては充分な増殖が期待できません。そこで、周辺部の森林約50haを買い取り、将来的にブナ林となるよう、苗木の植栽等の整備を進めています。美しい自然を未来に伝えるため、皆さんのご理解とご協力をお願いいたします。平成11年3月 貝塚市教育委員会 岸和田市教育委員会 財団法人 大阪みどりのトラスト協会 貝塚ライオンズクラブ寄贈」


最後の急な石段を登りきると頂上の葛城神社へ
和泉葛城山沿革

展望台 
 

展望台から  
 
     
 


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