紀州街道1 紀州街道2 紀州街道3 孝子越街道1 孝子越街道2 大川峠越1 






紀州街道3(貝塚〜泉佐野)







貝塚市

街道は貝塚市に入り津田川を越えると「忠臣捕鳥部萬墓 犬塚 是ヨリ三十丁」の石標がある
 捕鳥部萬(ととりべのよろず)の墓はここから津田川沿いに3キロほど、天神2丁目にある。

 捕鳥部萬は物部守屋に仕えていたが、用明天皇2(587)年、守屋が蘇我氏に滅ぼされると妻の家があった当地(有真香邑)に逃れ、朝廷の大軍相手に奮戦した後に自害。
 朝廷はその遺骸を八つ裂きにしようとしたが、萬の飼犬が人を近づけず、萬の頭を噛みちぎって古墳に埋葬し、その横に臥して飢え死。朝廷は義犬として称え、萬一族に萬と犬の塚を作らせた。隣接して義犬塚がある。


寺内町

「天文14年(1545)、無住であった草庵に紀州根来寺から卜半斎了珍を迎え、一向宗の町づくりが始められた。 石山本願寺から寺内町にとり立てられた後、天正5年(1577)には、その支城として織田信長と戦い、町は焦土と化した。
 その後、寺も町も再興され、天正11年(1583)7月から同13年8月に大坂天満に移るまでの2年間、紀州鷺ノ森より「顕如上人」を迎えて本願寺御堂となった。
 江戸時代には、町は寺領とされ、住職の卜半家の支配が続いた。
(願泉寺案内板 貝塚市教育委員会から)

願泉寺表門(貝塚市中846)
現在平成大修復工事中(〜H22まで)
「十六世紀後半貝塚では浄土真宗の信徒の手で寺内町の建設がはじめられた。町は北・南・中・西・近木の五町からなり周辺は濠と土居に囲まれていた。江戸時代貝塚が免租地にされたのと、紀州街道沿いの交通の要衝であったため商業都市として賑わった。街道沿いには旅籠が立ち並び廻船問屋は遠く松前とも交易していた。」(案内石標)



天体望遠鏡製作の先駆者
岩橋善兵衛生誕の地(脇浜新町)
「岩橋善兵衛は、宝暦六年(1756)鰯屋清八の弟としてこの地に生まれた。レンズ磨きを営むからわら、自ら蘭学を学び、寛政五年(1793)、「窺天鏡」と呼ばれる望遠鏡を作成した。これは天体望遠鏡としては国産の最初といわれ、非常に精密なものだったようである。この後、京都の蘭学者橘南谿らの下で学び、天体解説書「平天儀図解」等を著した。岩橋製の望遠鏡は評判が高く諸大名からも用命を受け、伊能忠敬の日本沿海測量にも用いられた。文化八年(1811)に没し、墓は海塚共同墓地にある。」(貝塚市教育委員会)

ちなみに貝塚市三ツ松に「善兵衛ランド」がある

脇浜1
粉河街道(左)との分岐
「左 粉川街道 犬鳴山不動 粉川道」
「右 国道第廿九号路線佐野加太和歌山道」
「明治二十九年三月建之」
「大阪府」
近木川を渡り澤に入る


泉佐野市
見出川を渡ると泉佐野市鶴原に入る
しばらく進むと三叉路に道標が立つ
「左 紀州わか山」
「右 大川あはしま」

紀州街道は左の道をとる
孝子越・大川峠越は右
すぐに府道(旧国道26号線)を越えしばらくして南海本線踏切を越えると畑が広がる
この時期はビニールハウスでの水ナス栽培が盛ん
道は泉佐野3中に突き当たり一部消えている
中学校沿いに進むとまもなく熊野街道と合流する
(泉佐野市下瓦屋)
熊野街道へ 鶴原へ戻り
孝子越街道・大川峠越へ
ページTOP