京 街 道

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「京街道」
 大阪と京都を結ぶ街道で「京街道」は大阪側からの呼び名。京都側からは「大阪(坂)街道」と呼ばれている。
 文禄年間に秀吉が築かせた淀川左岸の「文禄堤」上を通る街道で大坂京都間の最短コース。
 徳川幕府が整備した五街道のうち「東海道」五三次は、山科の髭茶屋の追分で分かれ伏見、淀、枚方、守口の四宿を含めた大坂までを東海道五七次としている。
 明治18年の国道表(内務省告示)では、東京から大阪港までの「國道第二号路線」に指定(~大津→三条大橋→淀→枚方→守口→大坂)
 大正8年道路法公布により大正9年4月には、東京から鹿児島までの国道2号
 昭和27年新道路法による路線指定で「国道1号線」(東京~大阪)となる。

 
 明治36年「大阪府誌」から
 「國道第二號路線」
 「本線は東京府より我が大阪港に通ずるを以って目的とし、本管に在りては城攝國界なる北河内郡樟葉村大字樟葉より来たり、同郡牧野村、枚方町、蹉跎村、友呂岐村、九箇荘村、庭窪村、守口町、東成郡古市村、榎並村等の諸町村を點綴し大阪市東區高麗橋元標に至りて終る。延長七里一八町一七間にして幅員約二間五分を有し地勢は概平坦なりと雖、その一班は淀川左岸堤塘に據れるを以って、或ひは平地より堤上に上り、或ひは堤上より平地に下る所あり、勾配稍急にして多少の湾曲あるを免れず。往時は京街道と稱し中國及び西南諸侯参勤交代の衝路に當り、車馬絡驛として沿道の驛舎殊に繁盛を極めしが、維新以降、淀川汽船の開始あり、尋いで京阪間鐡道の創立あり、漸次交通の機関具備したるを以って、来往概之れに移りて更に昔日の状態なしと雖、沿道中枚方町の如きは郡中の要地なるに拘らず、其の地位たる京阪間官設鐡道とは淀川を隔て、且、里餘の距離を存せるが故にいまだ全くその利便を収むる能はず。獨、淀川汽船の交通ありと雖、其の溯行するに際しては航程遅鈍にして遥かに腕車に劣るの傾向あり。且、洪水旱魃に會しては往々にして通船を杜絶する患あるを以って、今、尚、本道の便に據るもの多しとす。」

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付近
大阪城寝屋川に架かる京橋
(上の橋は大阪橋)
京橋 京阪京橋駅付近
京橋商店街
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野江~今市
高殿付近 城北運河(森小路) 森小路「京かい道商店街」
今市 国道に合流
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守 口
守居神社 文禄堤へ(守口)
文禄堤の町並み 京街道の案内板 難宗寺かどの道標
浜町に残る旧家 一里塚跡 京街道の新しい道標
庭窪浄水場付近 淀川堤へ(八雲北町)
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佐太天神宮 仁和寺付近 茨田の堤(5世紀頃仁徳天皇により造られた堤)の碑
出口
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枚 方
枚方大橋付近 枚方宿 浄念寺
京阪枚方市駅前を抜け天の川に 突き当たりにある枚方宿の案内板
いぬも暑さで 御殿山駅(この辺りの街道は旧国道一号線)
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牧野~橋本
三栗の町並み 穂谷川(牧野付近)
(高槻への前島街道を分岐)
船橋川に当たったところ(上島町)
しばらく旧国道を歩く 町楠葉の町並み 橋本へ
大谷川に沿った橋本 「右八まん宮山道」文政二年の道標
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八幡~淀
岩清水八幡宮のある男山 京阪国道改修記念(左)と岩清水八幡宮通(右)の碑 木津川、宇治川を渡る御幸橋
淀へ 与杼神社 納所
納所の町並み 旧道は桂川堤へ
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鳥羽~京都
桂川に沿って 月の桂 城南宮道
上鳥羽 九条通り

9月とは言ってもまだまだ暑い、気温は午前10時で34℃の炎天下
そのうえ淀川、桂川堤防上は日陰の無い大変厳しい道
水分補給も追いつかないほど汗をかいた一日でした。

約50Km 10時間


(西国街道と合流する羅生門跡付近が京街道の終点。
 東海道として淀で分岐 し伏見から山科の追分へ抜ける
 
道も京街道と呼ばれているようです)

1999/9/12