西国街道 5 (茨木)




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茨木市

(太田・・・十日市・・耳原・・・中河原・・・郡山)

太田茶臼山古墳(継体天皇陵)
紀元後5世紀頃に造られた前方後円墳で、第26代継体天皇陵であるともいわれている。
高槻市郡家新町の今城塚古墳が本当の継体天皇陵と考えられている。
茨木市太田三丁目



雲見坂の途中、太田神社への三差路にある道標
「左 京ふしみ道 右 とん田 三しま江」


かつてここから富田へ向かう「山家街道」が岐れていたが、東芝の工場(跡)に消えている
                  雲見坂
摂津名所図会に「太田村にあり太田頼基(太田城主)がここにて天文を見て雲気を考え、軍の勝敗をさとりし所といふ」とある
また、この坂の上に大きな石があって、紫式部がこの石に腰をかけて、西の方を眺めたという言い伝えがある。
安威川の河岸段丘でありかつては大阪平野が一望できたであろう















安威川の太田橋の東詰手前にあり一里塚跡と言われてきたが、現在では否定的であり、かつてあった一里塚の案内板はなくなり、西国街道の説明板があるのみ
                        
太田橋の手前              安威川を渡る太田橋










十日市
西国街道と茨木街道支線との辻
道標には
「右 芥川高槻山崎京都」
「左 福井豊川箕面池田神戸」
正面「右茨木停車場 大坂」
「左石川見山」
(明治四十二年三月大阪府)

法華寺門前の道標
左面に「左そうぢぢミち」
(総持寺は左ではないので元はどこか違うところにあったものか)


耳原(みのはら)

法華寺付近の坂道
太田の雲見坂と対をなす安威川の河岸段丘
法華寺は日蓮宗で慶長9年 (1604年)創立
幣久良(てくら)橋から見た幣久良山

佐保川と勝尾寺川は幣久良(てくら)山の麓で合流し茨木川となる。
この付近の河原を白井河原といい「白井河原の合戦」(1571年)の舞台
高槻城主和田惟政勢(高山飛騨守、その子右近、郡平太夫、茨木城主茨木佐渡守重朝など)500騎は池田勢(荒木村重・中川清秀など)2500騎と闘い多勢に無勢、和田勢の負け
その時高山飛騨守が陣をはった「糠塚」はこの幣久良山の北にあった(らしい)。池田勢は川を挟んだ「馬塚」に布陣



耳原古墳(帝人研究所内)
6世紀後半の円墳




中河原
西国街道と亀岡街道との辻の道標
「東 大津十一里 京都七里 八幡五里 山崎三里二十町芥川一里二十町」
「南 堺九里 住吉七里 大坂五里 吹田三里 茨木驛三十町」
「西 姫路二十三里 神戸十一里 池田三里 岡三里 箕面山二里」
「北 明治三十年十月建之 」

勝尾寺川沿いに進み国道171号線を越えると郡山宿




馬塚
(茨木市郡5丁目にある公園内)

豊臣秀吉が朝鮮出兵の時にこの地に留まったが、その時愛馬が死に、この地に葬ったことから「馬塚」と呼ばれるようになったという説(摂陽群談)他諸説あり
白井河原の合戦で池田勢が陣を張った








郡山宿








茨木街道道祖本街道との分岐にある3本の道標(宿河原町)

手前正面「国道第三号路線 池田伊丹神戸 芥川高槻京都 道」
右面「茨木街道 茨木三島江枚方道」(明治三十六年八月 大阪府)
 (当時の国道3号線は東京市から神戸港へ通じるもの)

中央「左 かちおう寺 西国道」

奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」
  
椿の本陣(宿川原町)

京都と西宮を結ぶ西国街道のほぼ真ん中にあり、『摂津郡山駅本陣』といい、御成門(正面入口)の脇に、椿の老樹が美しい花を咲かせていたので、誰いうことなく“椿の本陣”と呼ばれるようになった。
 建物は、享保3年(1718年)に類焼にあい、宿帳を除き貴重な古記録はなくなったが、3年後の享保6年(1721年)に再建されて以来、およそ280年間そのままの規模で残されている。
 宿帳に残されている宿泊者の中には、忠臣蔵で有名な赤穂城主浅野内匠頭が、元禄10年から同14年(1697年〜1701年)まで毎年宿泊した記録が残されている(茨木市ホームページから)西国街道で現存する唯一の本陣で国の史跡に指定








本陣前から振り返ったところ
正面左が西国街道、右が茨木街道



宿河原西会場前の3基の道標 勝尾寺を示している




勝尾寺川にかかる巡礼橋南詰の地蔵

春日神社



街道は勝尾寺川を鍛冶屋橋で渡りしばらく行くと左手に春日神社、右手の道をたどると国道171号線手前に道祖神社がある
道祖神社




勝尾寺川の山下橋手前(東)にある道標

「豊川学校」とは「豊川尋常高等小学校」のことで川端康成が明治39年に入学している(笹川良一も同級生)


道祖神社の鳥居の横にある道標(明治17年)
「是より北壱町余」とあることから元は街道沿いにあったのでは?

ぼろ塚
「徒然草」第115段 [あるとき、宿河原というところで・・・」
二人の「ぼろ」が果し合いをした場所として石でできた碑が残されている
(茨木市教育委員会の案内板)