道祖本街道


道祖本(さいのもと)街道

 高槻市芝生の芥川堤で高槻街道支線に分かれ富田、総持寺(茨木市)、西河原、郡、道祖本を経て奥(箕面市粟生)で勝尾寺街道に合流する街道で西国三十三ヶ所観音霊場の総持寺から勝尾寺への巡礼道でもある。

途中、高槻街道富田街道茨木街道支線福井街道亀岡街道茨木街道西国街道と交差する。
起点は箕面市粟生であるが今回は逆コースを辿っている


大阪府誌(明治36年)から
二等補助里道
起點地名 三島郡豊川村大字粟生勝尾寺街道
經過地名 三島郡豊川村、春日村、三島村、富田村、如是村
終點地名 三島郡如是村大字芝生高槻街道支線
里稱    二里七町

     
  高槻市芝生(しぼう)

菅原(東淀川区)で亀岡街道から分かれ淀川右岸堤上をきた高槻街道支線 は芥川に入り次郎四郎橋を渡り高槻市街に
この橋が道祖本街道の終点
 
番田井路の芝生大樋
    
芥川堤上を上流に向う
  芝生の八幡さん

石段の左の石垣にある「兎石」 
「いつなにのために彫られたのかは不明。白兎は瑞兆とされたことに由来することなのか。」(説明板)
 
  街道は堤を下り富田へ向う  寿町で高槻街道に合流   
     


 
 
   
富田へ

 
  高槻街道との辻に立つ道標
 
「南無妙法蓮華経」
「右からさきみち 左たかつきみち」
 
  富田
 
本照寺を中心に酒造業などで栄えた町
 
 
国乃長の壽酒造
 富田街道
   
普門寺
   
 
 
  総持寺へ 

 
 
 

 阪急総持寺駅北側の踏切を越える 総持寺の町並み を進む  

    
街道の正面に総持寺の山門が見えてくる

  高野山真言宗 総持寺
(茨木市総持寺1)

西国三十三所札所 第二十二番

総持寺HP
 
    
総持寺奥の院(JR

  総持寺をあとにしばらく行くとJR京都線に突き当たり直進する道は無い

大阪よりのガードまで迂回し、線路の反対側へ 
 
   
 
 
   
 
   西河原(茨木市)
 
  西河原の集落に入るともと疣水磯良神社への参道であったと思われる石燈籠二基がある

左の石燈籠の足元に「いぼ水」を示す道標(明治十二年一月)
 
     
西河原大橋手前の分岐に「右かちを寺」「左そうじ寺」の道標 がある
 
安威川旧流路の西河原大橋
昭和16年茨木川付け替え工事に伴い西河原付近の安威川は直線化された

旧流路は西河原公園として残り街道に架かる西河原大橋も残されている
 
安威川
   
   


 
       
  安威川を渡り茨木からきた新道を迂回すると三咲町で茨木街道支線との辻に出る


その角に寛政9(1797)年の道標がある

彫が浅く分かりにくいが、茨木市教育委員会「わがまち茨木 道標編」によると

「右丹波 すぐかちを寺 左大坂」
「石にとひ 右の道には 亀やまといふ」
「右大坂 すぐそうちし 左丹波」
「寛政丁巳秋九月」
 
   
 

 
 
   
国道171号線に出る手前に立つ茨木と総持寺を示す道標
 
「右 いはらき 左 そうち寺 道」
「文政四巳年十二月二十七日」
「香具連中建之」
「釈休西 畑田村俗名重兵衛」
   

 
     
 国道を越えしばらく茨木川沿いに進み五日市で巡礼橋を渡る   名神高速を越えたところで堤から分かれ郡に入る  
   井戸と地蔵堂  亀岡街道との辻(郡4丁目)  
  茨木街道と合流   茨木街道を道祖本へ向う  
       


宿河原(茨木市) 
       
       
   道祖本で西国街道に合流

その分岐に三本の道標がある
  「茨木街道→ 茨木 三島江 枚方道」
「國道第三號路線←池田伊丹神戸芥川高槻京都 道」
「明治三十六年八月 大阪府」

茨木街道の起点にあたる
 
 
「左 かちをう寺 西国道」
     
「右 茨木停車場 そうぢじ 道」
   
   
  椿の本陣   
    
2009/3/7 特別公開
       
  しばらく西国街道を進むと宿河原西会場のところで道祖本街道は右へ西国街道に別れていく

そこには4基の道標がある 
 
 
「すぐかちをうじ道」
 
「右かつをうじ」、「儀誉大徳」
 
「これ与右ハかつをじみち」
 
現在は折れているが元は
「右そうじ寺 京 大坂道」
「文化五戊辰極月日 郡山駅子供中 建之」とあったらしい(1808年)
 
  西国街道から分かれ間もなく勝尾寺川に架かる「巡礼橋」を渡り山手へ向う   
  国道171号線を渡り府道4号茨木能勢線に沿って行く   
    
街道は勝尾寺川を遡る
   宿久庄7
昭和6年畑青年会が建てた道標
「従是 右畑豊公御座松旧跡、すぐ勝尾寺 道」
 
     
 
   粟生(箕面市)

 
 
大坂モノレールの下を越えていく 
  旧道は粟生間谷東5で府道から分かれ勝尾寺川の支流の浦川に沿っていく  
 

 
 
   
文政八年
 
 
    粟生間谷東5
浦川の浦川二号橋を越えると手前の角に「大峯山上三十五度 」供養碑があり、その先には道標、地蔵と庚申塚(青面金剛)が集められている
       
       
 
   
 府道に出る手前の地蔵と竹本直太夫の墓
 
 
 
府道を渡り粟生間谷西地区へ
 
六字名号碑
 「十」道標?
「十石」分胴石?
多分丁石
 
粟生間谷西3 
この道は西国22番総持寺から23番勝尾寺へ向かう巡礼道でもあることから「十」は丁石の一部と思われる
かつて「十兵衛道」といわれた勝尾寺川沿いの巡礼道があり、この先にある西田橋の道標が22丁である
ことからみて「二十三丁」辺りになるのか
六字名号碑はこれと同様のものがこの先二か所にある
  
 
  天満宮 
       
  奥地区の集落(粟生間谷西6)   西田橋へ  
   
   
       
  道祖本街道の起点
西田橋で勝尾寺街道に合流

勝尾寺街道は西国街道の粟生新家から北へ向い山に入る町石道と勝尾寺川の谷沿いに行くコースなどいくつかあるがここからは谷沿いに登り勝尾寺に至る
 
    西田橋北詰に立つ勝尾寺への道標
(22丁道標)

勝尾寺と総持寺とを示しているが
道標を支柱にして勝尾寺への黄色のカンバン(「勝尾寺参拝道」)がくくりつけられているのはどういうものでしょうか(車には分かりやすいとは思いますが)
       
       
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