山陰道」(律令時代に定められた五畿七道のひとつ山陰道諸国(丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐) の国府を結ぶために設置された官道で現在の国道9号線が主としてその経路を踏襲している)、「丹波街道」秀吉時代に作られたお土居の出入口のひとつ「丹波口」を起点とし京と丹波、丹後を結ぶ街道)、「山陰街道」(明治18年内務省告示別表「国道表」により定められた國道23号路線等を主とする明治時代の呼び名)など、また時代により多少経路は異なるが、京都と丹波、丹後(〜山陰)を結ぶ街道
 
 

丹波街道(山陰道)

    「丹波街道町」の地名に引かれて今回はここから歩き出します。 
 

 
 
  島原   
島原
 豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永十八年(一六四一)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、 それになぞらえて島原と称されるようになった。
 島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子を言う。
 また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。」 (京都市の案内板から)
 
大門
   
輪違屋
   角屋  
   
 
 

島原をあとに七条通りに出て西へ向う 
 
七条新千本の手前に「丹波口」の標石
  「是より洛中荷馬口付のもの乗へからず」

「此付近は江戸時代の「京の七口」のひとつ丹波口である。当時の京都には都市全体を囲む城壁・環濠の御土居堀があったが、町奉行所は当地を含むその出入り口など役三〇ヵ所に本銘辞を刻む標石を建設した。すなわちここから東が同時代の京都(洛中)であった。(歴史地理研究者 中村武生)」とある
   権現寺

七条通りから少し南へ入ったところにありその手前には「六条判官源為義公塚」がある
 
  七条通りを東へ進むと西高瀬川に架かる月読橋を渡る

西高瀬川は桂川渡月橋の上に源頭を持ち、かつては京都市内の舟運で栄えたが、現在は途中の天神川三条で分断され、西側は排水路となり、水流は殆どない
 
月読橋から少し西 旧天神川を越える
ここから西の七条通は道幅が細くなる
   
 松尾三宮社(松尾七社のひとつ)
  葛野七条を過ぎると道は南へ曲がり川勝寺(せんしょうじ)地区へ、やがて天神川のを渡る  
  愛宕山の常夜燈が立っているところで旧道は右へ
すぐに桂川の堤に出る
かつてはここに桂の渡しがあったのであろう 
 
   
 
 
 
 
 
   桂大橋を渡る

橋を渡った西詰に立つ大きな常夜燈(弘化三年)

その後ろの森は桂離宮
 
   橋の西詰めには明治16年創業の和菓子の「中村軒」  
  桂離宮 

宮内庁管理
参観許可証がないと入れません
 
  桂地蔵寺 

京都六地蔵の一つ

保元二(1157)年平清盛により都の安泰を祈るため都に通じる六つの街道の入口にそれぞれ安置された
 
  西山御坊手前の道標(西京区川島北裏町)

「右 西山御坊 よし峰 大原の 岩くら」
「左 むかふ町 あわふ ながおか やなぎ谷」 
 
  本願寺西山別院(西山御坊)
 

阪急京都線桂駅の大阪よりの踏切を渡る
     
 
   09/2/21  
     
     
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