丹波街道(山陰道)2

街道は阪急京都線の踏切を渡り西へ堅原から老ノ坂へ

阪急の踏切を越えるとすぐ右手に大宮社がある

これも松尾七社のひとつ

(西京区川島)
さらに西へ
   
 
 
樫原(かたぎはら)

樫原 (物集街道との辻)

樫原は山陰道と物集街道が交わる古くから交通の要所として栄え、江戸時代には山陰道の一番京よりの宿場町として本陣も置かれた


郷倉 (辻の南西角)
「西暦七〇二年(大宝二年)大宝律令制定、山背国が葛野、愛宕、乙訓、紀伊、宇治、久世、綴喜、相楽の八郡に、西暦七九四年(延暦一三年)桓武天皇は平安京に遷都山背国に改む又、一郡を岡の郷(樫原)、川島郷、桂郷、下ツ林郷等一二郷にそれぞれ年貢米等収蔵される郷倉を建立、岡郷(樫原)は山陰街道切っての物資集積地でありまた華頂、宮家の社領地で、この場所に建立、明治になり宮家より樫原に郷倉が下賜され村では年間の米、麦の集積場として大いに活用、昭和六年京都市に編入と同時に三ノ宮へ村から寄贈されました。多くさんあった方々の郷倉は今はなくこの郷倉だけになり貴重なものです。」(「樫原町並み整備協議会(英)」から)
  「勤皇家殉難之地」 

元治元(1864)年の蛤御門の変で、長州軍に属していた長州藩集義隊の3名の兵士が、この地まで逃れて来たが、幕命によりこの辻を警備していた小浜藩兵に囲まれ討たれて果てた
遺体は、村人たちによって西の中腹に葬られた

「揚げ素戸ばったり床机」
樫原下之町付近

道の右側が本陣跡
樫原宿札場

天保十四年の愛宕灯籠とその左桜の木の陰に「左松尾嵐山道」の道標

ここに札場があったので「札の辻」と言われている
(樫原上ノ町)
三ノ宮神社御旅所
札の辻


 
さらに西へ進む

新池沿いに地蔵がありこの先の森が墓地で長州集義隊の3人の墓があるとのこと
ようやく墓地の中を抜けると突然国道9号線
パチンコの駐車場の左に竹薮へと上っていく道がありこれが街道の旧道と思われる


大枝
旧道をしばらく行く
大枝中山町にある「地福寺」

三ノ宮神社
三ノ宮神社の横をさらに登って行くと宇波多陵(桓武天皇夫人で醇和天皇母)
街道に戻る 
  南(左)から西山街道が合流   塚原付近
     
 
  沓掛  
  沓掛へ   
大枝神社
  高野新笠大枝陵
(光仁天皇皇后、桓武天皇母) 
 
  関明神
このあたりが「大江の関」跡 
 

   
老ノ坂


  京都成章高校前の橋を渡り校門前を右へ   
  京都霊園と今日と丹波道路の間の川沿いに進むと道はやがて行き止まりになるがフェンスの右に山に入る道がある  
   山道をしばらく登っていき西部クリーンセンターへの道路の下をくぐる  
   首塚大明神  
 『平安時代初期。(西暦八百年頃)丹波の国大江山に本拠を構えた酒呑童子が、京の都へ 出て金銀財宝や婦女子をかどわかすなど、悪行の数々を行うので、人々の心に大きな不安 を与えていた。天子(天皇)は源頼光等四天王に命じ酒呑童子とその一族を征伐するよう命じられた。
源頼光等は大江山の千丈ヶ嶽に分け入り、苦心の後酒呑童子とその一族を征 伐し酒呑童子の首級を証拠に京の都へ帰る途中この老の坂で休憩したが、道端の子安の地蔵尊が「鬼の首のような不浄なものは天使様のおられる都へ持ち行くことはならん」と云はれたが相模の国の足柄山で熊と相撲をとったという力持ちの坂田の金時が証拠の品だから 都へ持って行くと言って酒呑童子の首を持ち上げようと力んだが、ここまで持ってきた首が急 に持ち上がらなくなった。そこで一行は止むを得ずこの場所に首を埋めて首塚をつくったと伝 えられている。酒呑童子が源頼光に首を切られるとき、今までの罪を悔いこれからは首から 上に病をもつ人々を助けたい、と言い残したと伝えられ首塚大明神は首より上の病気に霊 験があらたかである。 』 (宗教法人 首塚大明神社務所による由緒書から)
 
 
 
  「従是東山城國」 

山城と丹波の国分石
 
  峠の里   
 2、3軒ある家も無住で、取り壊されようとしていた 都名所図会(1780年刊行)によれば「大枝坂(おいのさか)は樫原の西一里にあり 峠の西壹町ばかりに山城丹波國堺の立石あり 此所民家多し、峠の里といふ 丹波國の産物を荷い運び売かふ市場なり 酒呑童子首塚此所にあり 大江山の鬼神を平げて首を此所にかけしとぞ」


 
 
  峠   
     
   09/2/28   
     
   TOPへ  
   亀岡市へ