| 吹田街道1 |
吹田街道2
吹田市
榎坂(江坂) |
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| 豊中市と吹田市の境界を流れる高川を渡る |
吹田市側(江坂3) |
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| 江坂(旧榎坂村) | ||
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| 榎坂の集落 |
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| 榎坂西道標 (左)「右かちを(寺)」、(右)「右みのを中山、すぐはとりあま」「すぐ吹田京」 神崎川を榎木の渡しで渡り北上してきた横関街道が榎坂東道標の角で吹田街道に合流しここから北へ向かう ↓ |
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| 榎坂東道標 「左り 勝尾寺」 |
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| 新御堂筋を越える |
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| 垂水 |
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| 正面の現豊一市民センター(垂水町1)は豊能郡豊津村役場跡 昭和15年吹田町が豊津村などを合併し吹田市になるまで村役場があった |
垂水神社(垂水町1) |
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| 垂水神社拝殿 (「垂水神社由緒書」神社HPから) |
神社境内にある垂水の滝 「いははしるたるみのおかのさわらひのもえいつるはるになりにけるかも」(万葉集巻第八春雑歌 志貴皇子)の碑 |
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| 雉子畷 長柄の人柱伝説のその後の話が刻まれた碑 |
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| 豊津の商店街 中ほどの左手には旧上之川の水路跡がある 昭和16年に改修されるまでは街道の上を跨ぐ天井川であった |
垂水公民館跡 この場所には明治八年に第四小学校(垂水小学校)が建ち、後に村役場であった |
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| 四つ辻地蔵尊 元は街道沿いの垂水郵便局の向かいにお堂があった |
阪急千里線豊津駅手前の踏切を渡る | |
| 吹田 | ||
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| 阪急千里線を越え糸田橋から東へ向かう | 片山公園 |
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| 片山神社(出口町3) 素盞嗚尊を主神とし元禄5(1692)年の記録に片山村牛頭天王社と記載され、旧片山村(片山・原・山の谷・出口)の産土神として祀られてきた |
アサヒビール吹田工場(西の庄町1) 明治24年(1891年)大阪麦酒会社吹田村醸造所として竣工 |
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| 玉林寺(出口町10) |
産業道路(府道14号線=大阪高槻京都線)を越えた付近の町並み(西の庄町) |
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![]() 泉殿宮 (いづどのぐう)(西の庄) (「御由緒」泉殿宮HPから) |
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| 「明治22年(西暦1889年)、「泉殿霊泉」をドイツのミュンヘンに送り、これビール醸造(じょうぞう)に適水との保証を得、当宮隣接地に同水系の湧水を以って、東洋初のビール醸造工場(現、アサヒビール叶%c工場)建設の逸話がある。その後、近隣の都市化に伴い上水道は普及し、又、かつての広々とした水田が殆ど姿を消したのを見届けるかのように、霊泉は地中奥深くに水脈を移し、今は、湧水していない。」(泉殿宮HPから引用) |
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| 吹田旧市街 | ||
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| 吹田旧市街地 (内本町2) 重厚な造りの民家が散在する |
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| 旧西尾家住宅(吹田文化創造放流館) |
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| 吹田市内本町はかつて都呂須町で、古文書には「渡路洲」とあり船着場を意味する地名と考えられる。旧西尾家は江戸時代以来代々仙洞御料(天皇退位後の上皇の御料)庄屋を勤めた伝統ある屋敷で約1400坪の敷地に長屋門、主屋、離れ、茶室、東屋、温室などがある。 茶室積翠庵や路地、庭は茶道藪内家の指導による。また、離れは署名な建築家である武田五一による和洋折衷を試みた設計。植物学者牧野富太郎は12代当主と深い親交があり「吹田慈姑」が日本固有種であることを紹介した。 また、夭折の音楽家貴志康一(1909〜1937、指揮者、作曲家として、またヴァイオリニストとしても幅広く活動し、28歳で夭折)の母の実家であり誕生の地でもある。 2005年10月から吹田文化創造交流館として一般公開されている |
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建前地蔵尊![]() 吹田街道説明板(吹田市) |
高浜神社 |
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| 吹田街道の終(起)点に立つ南町道標(南高浜町) 左が吹田街道、直進が亀岡街道 |
南面「すぐ大阪」、西面「右京茨木惣持寺富田高槻勝尾寺芥川」、北面「左中山池田伊丹岡」 | |
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| 南町道標から吹田の渡しへ向かう |
吹田歴史文化まちづくりセンター「浜屋敷」 |
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| 吹田の渡し跡 元神崎川の船渡し場があり亀岡街道の渡し 明治8年に高浜橋ができ渡しは廃止となった |
蓮光寺の地蔵堂 「左片山ミち 右いはらきミち」とあり元は亀岡街道沿いの「北の口」に立っていたものいわれている |
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| 六地蔵道標 「右勝尾寺 惣持寺」、「左帝釈天王 片山村帝釈寺」、 「右大坂道」、「左茨木富田福井山田 京」 「この道標は亀岡街道から片山村へ通じる道が分岐するところにたてられていました。刻印にある帝釈寺は江戸時代はじめごろからのお寺ですが、明治四年、廃仏毀釈によって廃寺となりました。明治十一年に神崎川のつけかえ工事があり、高浜橋が架けられると、この道標から南の亀岡街道は高浜神社前から高浜橋を渡って大阪へ通じる道に変わりました。そのため、この道標は「右大坂道」と左茨木富田・・・」の文字が補刻され、再利用されたようです。」(吹田市教育委員会の説明板から) |
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