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田邊街道

枚方と京田辺を結ぶ街道でほぼ現在の国道307号線にあたる
枚方市禁野で岩船街道から分岐し池之宮の「四辻」で東高野街道と交差。野村を経て津田で山根街道に合流、しばらく平行し、惣喜池手前で分岐。穂谷川沿いに杉、尊延寺に至り河内峠を越え甘南備山のふもとを通り田邊へ。

明治三六年大阪府誌では
「一等補助里道  田邊街道
起点地名   北河内郡氷室寺大字尊延寺管轄界
経過地名   北河内郡氷室村、津田村、山田村、牧野村
終点地名   北河内郡牧野村大字禁野仮定県道岩船街道
里   稱   二里二二町」

(この度は、禁野(枚方市)から尊延寺を越え田辺(京田辺市)への逆コース)


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田邊街道 1


起点(終点)の禁野(きんや)
岩船街道は天野川沿いに田邊街道はこの禁野橋を渡り東へ向かう


宮の阪

名前のとおり段丘面の坂を上る
坂の途中で左へ「百済王神社」、「百済寺跡」への石段
百済王神社と百済寺跡
「祭神は百済王・須佐之男命(牛頭天王)
百済国王の禅広は、新羅・唐連合軍によって祖国が滅亡した際、日本に亡命してきた。やがて朝廷に仕えることとなり、百済王(くだらのこにきし)氏という姓を賜り、難波の地に居住した。
陸奥守百済王敬福(きょうふく)は聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。
やがて百済王氏一族は、皇室や高級貴族と姻戚関係をもち、朝廷内での地位を高めていった。特に桓武天皇は交野ケ原の地をしばしば訪れ、百済王氏と親交を深めた。
その後、度重なる火災により壮大な伽藍は灰燼に帰し衰退した。やがて奈良興福寺の支配を受け、再興が図られた。今ある本殿は、奈良春日大社の本社本殿を移築した「春日移し」である。
なお、拝殿にかかる「百済国王 牛頭天王」の木版額は、当社が百済王氏の祖霊を祀る神社であることを明らかにする。
二〇〇〇年3月枚方市教育委員会」

池ノ宮
「四辻」 東高野街道との辻(春日北町)
四辻を過ぎしばらく、春日野一丁目で右の旧道へ



野村

野村元町

法楽寺


春日大明神



津田

JR学研都市線を越え津田で山根街道に合流

尊光寺

右へ尊光寺への坂道の角に立つ彫の深い道標

「右ひらかた 左のざき大坂道
天保十二年山邑與兵衛
為釋法音」

(ただ示す方向は?)
浄土真宗本願寺派 開基は長禄年間(1457-1460)

山根街道を並行、しばらくすると春日神社
向って右が春日神社本殿
左が若宮八幡宮本殿

枚方市教育委員会の神社案内板

春日神社からしばらく進むと分かれ道
左は山根街道
右が田邊街道

この右手に二月堂石灯籠が立つ
奈良東大寺二月堂修二会(お水取り)に向けた講があったものか

国道307を越えると街道は惣喜池沿いに進む
第二京阪道路が横ぎるところ
左から藤坂街道が合流
上渡場橋で長尾からきた道が合流しその角に道標型の地蔵が立つ
「右 や王(わ)た 左たのくち」



急斜面に杉集落がある
(枚方市)
西方寺 寺の境内に石仏の道標がある
 「右八王た(やわた)京 左枚方大坂 道」と読め、元々街道沿いにあったものか



尊延寺

尊延寺は穂谷川に沿って右岸と左岸に分かれて集落があるが左岸側の方が古いらしい
榁谷橋を渡り尊延寺集落へ
街道は枚方市により「氷室路」と名付けられている
田中医院
いいですねぇ
来雲寺

境内の十三仏板碑
左 慶長16年(1612)
右 永禄元年(1558)
左 厳島神社
右 厳島神社末社春日神社本殿は重要文化財
上茶屋橋を渡り尊延寺集落をあとにする
府境の手前
旧国道(現府道)の峠
国道307に合流するとすぐに大阪府と京都府境

府県境が峠である場合が多いが300mほど京田辺よりの「河内峠」になるらしい

左手のこんもりとした山が甘南備山(221m)。甘南備とは「神が隠れる場所」

河内峠(標高121.6m)バス停がある
田邊の街に下っていく

田邊で奈良街道に合流(田邊街道終点)


酬恩庵一休寺(寄り道)


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