丹州街道2

 
 

丹州街道

「本街道は大阪府より丹波に通ずる一路線にして、兵庫縣川邊郡東谷村字一庫出合橋に於いて能勢街道と岐れ山間谿流を溯り、本營下豊能郡西郷村大字下田より其程を超し枳根荘村大字森上山邊の山間を過ぎ同村大字天王に到り攝丹兩國々界に終る。延長三里三十五町三十九間あり。抑、丹波の地勢たる、大阪を抜くこと實に數百尺の高位にありて且攝丹國界に當り山峯蜿蜒施ひて一大山脈を為せり、故に大阪より丹波に通ずるもの一として急峻ならざるはなし。殊に本道の如きは其の最嶮岨にして路線また嶮悪なり、中に就きて、下田、森上間は山間稍廣濶なりと雖、森上山邊間に浮峠の難關あり、山邊より天王に至る間は高山連綿として屏立し、道路を導くに唯一の谿流あるのみ。本道は該谿流に沿ひ遡行すること三十町にして水源に達す、其の高差は山邊より六百尺の上に在り、同所以北は山嶽相連り、道路は山頂の底部を撰び蜒轉昇降し山巓に於いて、三十餘尺を掘り割り天王に向ひて下る、此の昇降七分の一乃至十五分の一勾配を有し「ハイガラ」峠といふ、是れより十数町にして國境に至り降ること十町餘にして丹波國多紀郡福住村に通ず、是れ本道の勾配急峻を免れざる所以なり。」(明治36年「大阪府誌」から)




丹州街道1


スタートは能勢街道一の鳥居
一庫までは能勢街道を進みます
国道173号線沿いに
見野で国道から分かれ山下へ
川西市郷土館(下財町)
多田銀銅山ゆかりの製錬所を営んでいた平安家の邸宅、
川西市小戸より移築された英国風建築の旧平賀邸が公開されている

平野神社(笹部2)
大昌寺
下財から国道へ下りて行き、国道を渡り田畑の中の旧道を進む
一庫大路次川を渡り一庫の集落を通り川沿いに進む
   一庫  
   やがて正面に一庫ダムが見えてくる  
 洪水の被害を軽減し、併せて渇水時 には農業用水、上水道用水としてダムから水を補給するとともに、新たに50〜60万人分の都市用水を生みだす多目的ダムとして昭和43年8月1日に調査所を開設し昭和59年3月まで、16カ年の歳月と638億 円の巨費を投じて一庫ダムは完成
 


丹州街道ここから



一庫ダムによりせき止められた「知明湖」

国崎地区など32戸がダム湖の底に水没

かつて田尻川と大路次川の合流地点に出合橋がありここが丹州街道の起点であった
  圓山隧道の扁額が現在の国道脇に残されている
右の半島状に突き出た根元にほぼ水没した隧道らしきものが見える 
 

上の新龍化トンネル脇に立つ記念碑
龍化隧道 (昭和52年まで国道173号の隧道として使用されていた)
記念碑の側面には大正5年に大阪の植村治良兵衛氏が私財を以て開鑿したもの、とある 
また、これによると丹州街道は「昔時旧能勢郡各村ノ民池田大阪ニ往来スル者ハ層巒重嶺ヲ攀登シテ崎嶇険難其労苦甚シカリシガ、
明治十八九年ノ交村老相謀リ各其資ヲ義捐シ尠カラサル費ヲ忍ビテ新道ヲ開キ、大路次川ニ沿テ直ニ出合橋ニ至ラシム、
而シテ後挙ゲテ之ヲ兵庫県ニ寄附ス、之ヲ丹州街道トナス
川沿いに旧旧道


 
   能勢町  
   
 
下田


 福恩寺
大同二年(807)年の開基
最初は真言宗であったが、天正十年(1582)浄土真宗となった
 ここから北へ大路次川沿いに園部街道(現在の国道477号線)が分かれていく
  森上へと向う   
 
     
   森上 能勢西中学校前で東から来た明月峠と合流
また、三田街道とはしばらく並行していく 
  岐尼(きね)神社 
 
 案内板によると
「当社は、旧来枳根庄内にあって、能勢町森上の地に鎮座し、『延喜式神名帳』能勢郡の条には『岐尼神社』と見える。祭神は『天孫瓊々杵尊』、中臣氏の祖神である『天児屋根命』、大名草彦命の子『枳根命』と『源満仲』で、『岐尼・枳根・枳禰。杵宮』、或いは『杵大明神』と称していた。  『瓊々杵尊』といえば、天孫降臨の神話にある神であるが、ここにも天孫降臨の説話がある、すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えたという。『杵』、『杵尊』のひびきは社名の起因と考えられる。また、天降った丘を今も『天神山』と呼んでいる。社記によると、延暦元年(782)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家代々の御祈願所であったという、また祭神に加わった『源満仲』については、多田の地に入部以来家臣の多くが当地に入り、開発治世にあたったその君恩を子孫に伝えるためといわれている。」
  蓮花寺   
 

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