奈良街道1 奈良街道3
奈良街道5 奈良街道6



奈良街道2
八尾から柏原へ
八尾市
平野区加美から中央環状線(近畿道)の高架道路をくぐり八尾市亀井に入る 亀井町
跡部神社(亀井2)

「右・・・」上部のみの道標
太子堂4
勝軍寺(太子町3)
「椋樹山大聖勝軍寺と称し高野山真言宗に属し、叡福寺(太子町)に対して「下の太子」という
聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、四天王に祈願、その加護によりいくさに勝ったのでこの寺を建てたという・・・」(八尾市教育委員会説明板から)

物部守屋大連墳
勝軍寺の東隣にあり物部守屋大連を葬った所
植松町7付近の街道
植松6
渋川神社
「式内社で天忍穂耳命、饒速日尊をまつる。もとは長瀬川の東岸にあったが天文二年(1533)の大洪水で流失、元亀三年(1572)現地へ移されたという。この地一帯は物部氏の住地でこの社は古くは竜華寺の鎮守であったという。・・・」(八尾市教育委員会)


「右八尾駅」(相生町1)
     
街道は植松墓地のところで八尾街道につきあたり、そこに道標がある
「右八尾、左平野」、「右柏原、左八尾」、「右平野、左柏原」
(寛政七年)

国道25号線に合流する角の道標
「左八尾街道八尾停車場、右奈良街道柏原停車場」
「左奈良街道平野大阪」

この先国道25号線 
左奈良32Km 右大阪16Km
天王寺屋地蔵(八尾市天王寺屋2)
鎌倉時代末期 永仁五年(1297)の造立


その東隣は稲生神社
弓削神社(弓削町1)
宇麻志麻治命、饒速日命を祀る延喜式内社
弓削は物部氏に属した弓削一族の本拠地で弓削道鏡はこの地の出身
大阪外環状線の高架道路を過ぎたところにある道標「信貴山」、「左さかい」、「右大阪」
西村市郎右衛門頌徳碑
「宝永元年(1704)の大和川の付替えで、旧大和川流域の灌漑用水が乏しくなったため、流域の村々は新大和川から井路川へ水を引くことを請願したが、許可される前に大旱にあい、農民は困苦にあえいだ。このため、弓削村の庄屋西村市郎右衛門は幕府の許可を待たず二つの樋を開いて農民を救った。捕らえられ大坂城中で客死。家財没収一家は断絶となった。・・・」(八尾市教育委員会の説明板から)
柏原市
八尾市から柏原市へ入ったところで街道は国道と分かれ旧道を進む
信貴山を示す道標(柏原市今町2)
「右信貴山毘沙門天
是より五十町
「すぐ道明寺 大和 道」
「左住よし さかい 天保九年」
「すぐ八尾平野 大坂」


柏原神社

寺田家住宅(国登録有形文化財)
寺田家 三田家の案内板
(柏原市教育委員会)
柏原市今町


三田家住宅(国重要文化財)


大和川付け替え以前の元和6年(1620)旧大和川の洪水で柏原は大きな被害をうけ、代官の末吉孫左衛門が柏原の復興を願って平野川に舟運を計画。そのときは大坂町奉行の許可がおりず、正式に運行が始まったのは寛永13年(1636)のこと
船は長さ約12m、幅約2m、15〜20石積、船頭2名で運行した。積荷は干鰯、油粕などの肥料が主。
明治22年に関西線が湊町−柏原間に開通し、荷物はそれにとってかわられた 
突き当たりは大和川
築留二番樋
大和川の水を長瀬川・玉串川に取水するため明治40年ごろ築造されたもの

大和川付け替えに尽力した中甚兵衛


東高野街道と交差(柏原市安堂)
奈良街道3
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