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八尾街道
八尾街道
「南河内郡志紀村大字老原に於ける奈良街道より北進して中河内郡八尾町に入り、西折して久寶寺村加美村を過ぎ東成郡平野郷町に於いて更に奈良街道に合せり。而して本線は尚西向して南百済村、依羅村、墨江村等郡内樞要の地を點綴し、同郡安立町に至りて國道廿九號路線に合す。延長三里廿六町三十一間、幅員約一間八分を有し、概、平坦なれど大體に於いて屈曲少しとせず。沿線には久寶寺御坊、平野大念佛寺、我孫子観音、住吉社等の著名の神社佛閣の點在せるありて参詣行旅者の來往常に絶えざるが中に其の縁日に當りては交通極めて頻繁なり。」(明治36年「大阪府誌」から)
 大阪市等の土地区画整理事業により南住吉地区は特に戦後において大規模な区画整理が行われたため、八尾街道の当時のルートのうち三軒家(長居公園の南西角、長居交差点付近)から南海高野線我孫子前駅踏切付近まではかつての形跡を辿れなくなっている。

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  八尾街道1


 
八尾街道はここで奈良街道(竜田越)から北へ分岐する


安中診療所前の辻

安中老人福祉センター前の植え込みに八尾街道の案内板と道標がある

八尾街道と恩智街道との辻にあたり明治45年大阪府が建てた道標があり、辻の東側に倒れていたものをここに保存したとある
(元の場所と異なることから向きと示す先は逆に近い))
八尾市教育委員会の「八尾街道・恩智街道」の案内
矢矧橋の親柱(長瀬川)
矢作神社(南本町)

 創建は不詳
 祭神は経津(ふつ)主命ほか
経津主命の後裔矢作連一族はこの地で矢作り業に従事。物部氏の繁栄に伴い祖先を氏神として経津主命を祭祀したもの。
延喜式内社として古くより名高い神社であった。(神社由緒から)
今井会館まえの地蔵尊
南本町交差点

街道はここで左斜めに折れていく

東北隅の地蔵堂
八尾市役所うらの梅ヶ枝地蔵尊
市役所の裏の道が突き当たると右隅に道標がある
「右 信貴山 柏原、すぐ 瓢箪山 枚岡」「大阪府」

右が今来た八尾街道でここをすぐ(東へ直進)行くと突き当たりにまた道標があり「左 十三越 をうとう越、右 かしわら 信貴山」とあり、かつてはこの東西の道が八尾街道であったと思われる
   
八尾寺内町
 

八尾寺内町の東口に建つ道標

現在の大阪東信用金庫本店敷地は八尾寺内町を建設した森本七郎兵衛の旧宅跡
大信寺 (真宗大谷〈東本願寺〉派 八尾別院)

「真宗東本願寺の別院、慶長十一年(一六〇六)久宝寺村の森本七郎兵衛貞治ら一七人衆は、東西本願寺の分立にさいし、東本願寺教如上人に属したため、村を出て八尾庄四町四方の地を与えられて移住、八尾御坊を建立、寺内町をつくり、八尾発展の基を開いた。
 万治三年(一六六〇)現地に移建、天明八年(一七八八)京都の本山が焼けたときは、この本堂を移して仮御影堂に代え、一〇年後再びかえされ旧に復した。
 昭和二八年三月三日突如本堂の棟がくずれ、その後今のような全面改修となった。境内には河内県庁跡があり、お逮夜市でにぎあう。」(八尾市教育委員会の説明板から)

明治2年(1869年)河内県の県庁が堺県に統合されるまでの9か月間、境内に設置された(河内縣廰跡の碑
お逮夜市
毎月11日と27日に八尾御坊付近一帯で開かれる露天市




元町通りから沢の川北、沢の川南通りは河内街道

八尾街道とは本町二丁目交差点で交差
沢の川(さのかわ)南通り

元町通り
常光寺( 臨済宗南禅寺派)
聖武天皇の勅願で、行基菩薩が創建したと伝えら、本尊は地蔵菩薩で「八尾地蔵」といわれている。
河内音頭(流し節正調河内音頭)発祥の地
八尾天満宮
慶長年間に片桐且元が創建
中門は寺内町の木戸門を移建したものと伝えられている 
慈願寺(真宗大谷派)
元は久宝寺にあったが大信寺同様に東西本願寺分派の際に東本願寺に属し、そのために八尾に移ったといわれている 
     
両岸に金刀比羅灯篭が建つ
 久宝寺側
長瀬川「八尾浜と久宝寺船着場 」

「長瀬川はもと大和川の本流で古くはおよそ二〇〇メートルの川幅があり、人と物資の運搬で川船が往復した。
宝永一年(一七〇四)大和川の付け替え後は井路川となり、八尾と久宝寺の人々の共同出資で剣先船が人や米、木材などを京橋まで運び、年貢米の運送や大阪よどなどへの往復でにぎわった。
こちらの八尾側の方を八尾浜むこうの久宝寺側を船着場とよびともに祭礼の時のお旅所であった。」
(八尾市共育委員会説明版から)

 
北面「北 左信貴山道」
西面「右かしわら国分 すぐ信貴山道」
南面「すぐ玉造道」
東面「右大阪道すぐひらの天王寺
久宝寺側の灯篭手前に彫の深い道標がありここから北西へ川に沿って北八尾街道が分岐する
     
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