八尾街道1 八尾街道2 八尾街道3   
     

     

より大きな地図で 八尾街道 を表示


  八尾街道2


久宝寺から平野
 

長瀬川を渡り府道の顕証寺交差点を越えしばらく行くと久宝寺寺内町に入る。
東の出入り口にあたる「辻の札地蔵尊」

表町通りの東端に立つ東口道標

西面「右 和州信貴山、八尾地蔵尊道」
南面「左 大坂 平野道」
東面「天明元丑年六月」
久宝寺寺内町
   顕証寺
 
表町通りの西端に立つ西口道標

南面「右 八尾地蔵 信貴山 道」
東面「左 平野 大坂 道」
北面「文政八乙酉年十一月建之」

寺内町を出で府道を西へ進む
JR関西本線の下をくぐると右手上方に菅原神社。JR加美駅の手前にあたる
菅原神社


境内に「昭和五年国勢調査記念」なる石碑がありその裏に
「加美村世帯数九八七
 同人口 男 二、二五四
      女 二、二一四」
とある
神社前の歩道橋で府道の南側へ渡る
かつて阪和線と関西線のバイパスの役目を果たしていた阪和貨物線跡(2009年廃止)をくぐり、また西へ平野へ向かう
 
平野
東から来た街道は平野川の池之尻橋手前で奈良街道と交差
池之尻橋
平野川
「大和川付け替え以前の元和6年(1620)5月、旧大和川の洪水で柏原市を中心に大きな被害をうけました。このとき末吉孫左衛門が柏原の復興と平野の繁栄を願って平野川に舟運を計画しました。けれどそのときは大坂町奉行所の許可がおりず正式に運行が始まったのは寛永13年(1636)のことでした。大阪京橋から平野川を平野、柏原まで上下し、河骨池口付近に船溜まりが設けられました。
船は長さ約12m、幅約2m、12〜15石積(発足当時は40隻、その後70隻)の大きさで、船頭2名で運行しました。平野方面への積荷は米(他国産米で綿作農家の飯米用)、干鰯で代表される肥料(これも綿作用)がおもなものでした。この平野に利益をもたらした船も、大和川が付け替えられてからは衰退に向かいます。それは平野川へ流入する平野川の水量が減少し、土砂の堆積も進んだことによります。その対策として川ざらえをしたり、積荷量を減らすなど対策を講じましたが、やがて運行は平野までとなり、隻数も明治初期には20隻ほどとなりました。その後は鉄道が発達し、明治22年には現在の関西線が湊町−柏原間に開通し、荷物はそれにとってかわられ、明治42年遂に70年つづいた栄光の歴史をとじたのでした。
」(橋の欄干にある説明板から・・・大阪市?)

平野の黄金水

「平野は元来土地低湿で飲料にたえない井戸水が多いなかで この井戸のみは水質に恵まれ各戸に牛車等で運ばれ 平野郷の命の水となっていた。」
(平野公園)

平野公園には環濠跡にあたる場所


「樋ノ尻口地蔵」説明板
(平野環濠都市遺跡顕彰会)


旧樋尻門筋

「江戸時代、この筋の東詰に環濠の水を平野川から引く樋の出口があった所からこの名がある。平野の幹道で奈良街道や八尾街道に通じている。大正3年(1914)本筋西詰に南海平野線が開通して商店街となった。江戸時代には綿屋町と称し、綿問屋が立ち並んでいた。」
 全興寺前

  全興寺境内にある道標
「右 さ山 高野山 すぐ 信貴山 道」
「左 ふし井寺 道明寺 大峯山上 是より一丁東乃辻右へ同所 道」
「慶応二丙寅年二月下旬建之・・・」
 

旧天神筋との辻の道標

ここは「左 なかの 住よし さかい 道」へ
正面(東面) 「左 なかの 住よし さかい 道」
南面 「右 八尾 志き山 みち」
北面 「右(直?) ふちゐ寺 大峰山上 道」
裏面 「安永八年・・・」

南海平野線の廃線跡

大正3年(1914)今池と平野間が開業
昭和55年(1980)大坂市営地下鉄谷町線の八尾南駅までの延伸に伴い廃止(平野駅の位置は全く違う場所)
廃線跡のほとんどは阪神高速14号松原線のルート

西脇口地蔵

「堺口」と併せ住吉、堺への出口の一つ

「西脇口おじぞうさん広場」案内板
西脇口を南下すると突き当たりで「堺口」からの道に合流   
 
 
 
 南港通りを横切る 流町1で阪神高速松原線を越える。この地下に地下鉄谷町線」の平野駅がある。 
 
     
     
  八尾街道3へ   
     

TOP